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越後妻有トリエンナーレ 

週末、友人と新潟で行われている越後妻有トリエンナーレというアート展に行って来ました。越後妻有という豪雪地帯の(過疎化がすすむ)集落で、世界から100人以上のアーティストが参加して行われているこのイベント、3年おき開催ですでに3回目。初めて行ったのですが、サイコーでした!!!!何がよかったって、まずは新潟の自然の美しさ、そして想像以上にひとつひとつの作品が自然の豊かな場に馴染んでいて質が高い。途中、川で泳いだり、蕎麦食べたり、温泉入ったり、野菜もうまいし、何より開催側の新潟の人たちが暖かい。まだ行っていない方、スーパーおすすめ!!!とくに子供とかはこういうの、楽しいだろうな。

curtain

loop

hiro

flowers

swim

elrich

fukutake

women

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イメージ、本物、意味。 

もうひとつ、今回のプロジェクトと微妙に関係があるかもしれない、アート作品を紹介します。1965年にアメリカのコスースというコンセプチュアルアーティストが発表した作品「one and three chairs」。タイトルどおり、一つであり同時に三つである椅子(イメージ/本物/意味)を並べただけのものですが、アートの歴史を紐解くと必ずといっていいほど出てきます。

kosuth

Joseph Kosuth, "one and three chairs", 1965

こんな素っ気ない作品の、どこが評価されたのか。
ひとつにはこの時代(60年代)に、それまでのいわゆる「芸術的」な、言い方を変えれば、「作家の美意識的丸出し」の作品に対して、コスースをはじめとするコンセプチュアルアリストたちがあえてそういう美しさを入れない、いわば「素っ気ない」作品をつくることで「No」と突きつけたことが挙げられるでしょう(ちなみにこの素っ気なさ=飾りっ気のなさは、コンセプチュアリスト/ミニマリストたちのトレードマークとなります)。

そして、この作品はただの椅子を絵や写真に「美しく」描くのではなく、単に実物と、その即物的な写真と、辞書の意味の3つを並べることによって、「表現することの意味」そのものを問うたわけです。ここら辺の、従来の概念の逆転に(西欧で価値があるとされる)アートの本質があります。
もちろん、この「美しくない」味気なさに好き嫌いはありますが…。とりあえず、現代アートのおさらいでした。
そろそろ一服します。

動物を使ったアート作品 

今回、僕はこのプロジェクトで本物のひとこぶラクダをギャラリーで展示して、それを見ながら煙草のCAMELを吸おうというわけですが、ギャラリーで動物を展示したのはもちろん、僕が最初ではありません。美術史からいくつか代表例を紹介してみます。

kounellis

生きた動物を展示したもので(おそらく最初のもの)有名なのは、1960年代後半、イタリアのヤニス・クーネリスが、本物の生きた馬をギャラリーに展示した作品(Horses, 1969)でしょう。この作品は当時のアート運動、「アート・ポヴェーラ」(Art povera それまでの金持ちによる金持ちのための絵画中心のアートに対抗して、貧乏人?による今までにないアートの形を提唱した運動)の流れで捉えられています。
当時の主流だった、静止した、いわば死んだものとしての絵画(実際、その中に馬が登場することは多い)の代わりに、生きた馬をそのまま展示したわけです。そりゃ、当時にすれば「?!?!?!」と、相当な驚きだったのでしょう。ちなみに写真で見る限りで、馬は8頭もいます。ヤニスは友人に牧場主でもいたのでしょうか…。

最近では、同じイタリアのアーティスト、マウリッツォ・カテランが1996年に発表した「The Ballad of Trotsky」(1996)が有名です。またしても馬ですが(ひょっとするとヤニスの現代版を意識もしていたのかもしれません)、こっちは死んでいます(剥製)。そして天井から吊り下げられています。

trotsky

ちなみに、この作品はベネチアビエンナーレなど各地で展示され、2004年のサザビーズのオークションで、2億円以上!の値をつけたと言われています。僕は実際に見たことはありませんが、そのオークションカタログには以下のようにあります。

「永久に宙に吊り下げられた馬、そこには何か恐ろしさと悲しさがあると同時に、エレガントでため息をもらすようなものがある。また、同時に(彼の他の作品と同様)完全に途方もなくバカげている。カテランはこの運搬用動物である馬のもつ強さと力を、人間の悲喜劇的状況を反映する無力さのイメージへと変換する。」

それにしても「途方もなくバカげている」ものに、なぜ2億円以上もの値段がつくのか…そこがアートという創造による価値の飛躍、錬金術の面白いところです。もちろん高値の原因は、M・カテランが今、トリックスター、道化、泥棒(実際、過去に他人の個展に夜侵入して作品を盗み、それを自分の作品として展示したこともある)と称される、現代アート界有数の売れっ子(アーティストランキングより)だということはありますが、彼の作品でも値がつかないものもあるので、それだけじゃない。ポイントはこの作品につけられたタイトル、「トロツキーのバラード」でしょう。そこから想像されるのは、ロシア革命前後に永続革命や世界革命を提唱し、最後は亡命先のメキシコでトンカチで頭を割られて暗殺された革命家、トロツキーです。カタログでは、以下のように勝手に深読みされています。

「タイトルはこうも伝える:普遍的ユートピアの無力と、人間のダークサイドによる、ロマンチックな理想主義の強奪の記念碑だということ。この作品は、トロツキーの死、さらには彼の理想の可能性の失敗と、私たちの人生の不完全性についての、悲しみなのです。」

このように、馬を剥製にして天井から吊り下げてタイトルをつけることによって、カテランはただの馬を、背後に複数の物語のレイヤーをもつ「記念碑」に仕立て上げたわけです(本人の意図がそこにあったかわかりませんが、結果としてはそう評価されている)。

イメージ X 文脈 X 知名度=2億円以上の価値を生んだ
(ちなみに、馬の剥製をつくっているのはもちろん専門業者なので、彼は実質この作品のアイデアを思いついて発注をしただけ)。

アートというと、手作業で何かをつくるのをイメージしがちですが、僕はイメージと(そこに貼りつく)意味のレイヤーのかけ算による従来価値の変換にこそ、現代アートの本質があると考えています。

insta

知名度レベルはまったく違えど、今回の僕のプロジェクトは単純に「ギャラリーに動物を展示する」という点ではこうした先達たちの系譜に連なるでしょう。でもそれでは「馬かラクダか」という違いしかありません(幸いかつてラクダをギャラリーに展示した例はまだ聞いていませんが。笑)。

このプロジェクトは、単なるラクダをギャラリー空間に置き、その前(路上禁煙法の施行された地域のギャラリー)で同名の煙草を吸うという体験を通して、消費社会におけるイメージとリアルの関係、広告とアートの関係、そして昨今の禁煙ブームにおける個人の自由についてなど、いくつかのレイヤーがかけ算されるところが面白さのポイントだと思っています。
ほんとうは、こういうことを自分で書くのは面映いけど、2つの先例について書き始めたら、自分のを書かずには締まらなくなってしまいました…。

ふうーっ、かなり長くなりました。
読んでくれた方、ありがとうございます。
そろそろ一服、いかがですか?





広告プロモーションか?アートか? 

最近は、仕事先でも人に会う度に、このプロジェクトの話をし始めました。一応、広告会社なので、突然こういう話をしてもそれほど珍しくはないのです。

まずは、直の上司に「今、個人的にこんなバカバカしいこと考えてるんです」と企画を報告。CDの観点から意見を聞いてみる。「…面白いと思うけど、おれとすればこの世から煙が無くなった方がいいんだけどなー」そりゃそうですよね、嫌煙家としては…笑。

また、別件で仕事をしているライブマーケティング担当の上司(喫煙者)に企画を見せてみる。すると面白がってくれた彼女「広告としてやるの?個人としてやるの?」と。広告の形が変わりつづけている今、死体とかエロとか差別が入ってないかぎり(この辺は日本では特に悪しき「自主規制」が多いが)<広告>にとりこめない表現など存在しない。だから、この企画も十分、CAMELのプロモーションとしても十分成立してしまうのです。ただし、ほとんど同じものであっても、それが発表される文脈ー業界によって当然、意味も変わってくる。もしこれが煙草会社によるプロモーションだとしたら、ただ単にインパクトを狙った新手の広告として「面白いね」で終わるかもしれないし、それがギャラリーで仮に「アート」として発表されるとすると、そこから受けとる意味も変わってくるはずだ。広告プロモーションか、アートか、その辺の境界の曖昧性を、見た人に考えてもらうのも、このプロジェクトの意図のひとつ。

そして僕はあくまで、このプロジェクトを「CAMEL」のプロモーションとしてではなく、個人として、僕の名前でやりたいと思っています。個人でやるからこそ面白いし、価値があるのではないかと。(もちろん結果的に「CAMEL」というブランドイメージにとってプラスに働くことは間違いないので、何かしら協力関係が結べればうれしいですが。)


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ジダン、頭突き、差別とレッドカード 

ジダンの頭突き、という思わぬ展開で幕を閉じたWカップ。
その後、彼がキレる原因となった暴言が何だったのか気になっていて、きっと人種差別ものか、親への侮辱ネタだろうとは思っていましたが、今のところイギリスの新聞では、

「アルジェリアのテロリスト!!!」

というものらしい。
もちろん、これを言われたからといって大事な現役最後の試合で相手に頭突きを食らわすのも幼稚といえば幼稚だけど、彼があの場で自分の最後の舞台を犠牲にしてまでもプライドを優先すると判断したのならば、それも彼の価値観。それより、もしもマツェラッティが本当にこういう言葉を言ったのだとしたら、頭突きを食らわす以上に卑劣だし許せない行為だと思う。

*ちなみにジダンは温厚そうに見えるが、チャンピオンズリーグでも頭突きで退場になったりと、今までにも試合中何度もキレているらしい。(そういえば僕自身、ジダンが98年Wカップでつまらない反則をしてレッドカードを食らったバカバカしさを記念して、赤いプラスチックにジダンの名前と反則を犯した時間を彫り込んだ作品をつくったことがあります。↓Untitled(red card), 2001。見たまま、単に、大きなレッドカードです。アートというもの自体、既存のルールを破るレッドカードそのものなのです。)

redcard


ここで話を強引に煙草に戻しますと、アメリカで最近よく聞く、喫煙者を採用しない会社とか、すべての公共空間を全面禁煙するとか…これらも健康を掲げてはいますが、形としては嫌煙者による喫煙者の差別と言えるでしょう。

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