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近況 

久々に自分のこのブログを訪れてみた。更新してないと広告がついてしまうらしいので、とりあえず何か書いてみます。近況の方は「はてな」に書いてますー。

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煙草のにおい:他者への想像力、思いやり 

sadmanさんのブログ、「おかしな事を言うな」で、煙草の煙の匂い(臭い)に関する議論が盛り上がっていて(…と書いたけど、現時点で50もコメントあるのに、主に議論を続けているsadmanさんとFT-620Bさんがすれ違い続けているのが残念。同時に、根本的に違うサイドの意見を持つ者同士が議論をする難しさも改めて感じる)、僕は、大筋ではsadmanさんの意見に賛成なのですが、ここで改めて「煙草の煙のにおい」に関する自分の考えをまとめておこうと思います。

まず、煙草の煙の「匂い」は人によっては(特に非喫煙者にとって)かなり「臭い」ものだいうのは事実だと思います(時には喫煙者の僕でも他人の煙を鬱陶しいと思うことはある)。また、喫煙者がそれ対してしばしば無自覚、無神経であることも多いと思います。喫煙者サイドとしても、きっちりとこの「煙草が人によっては非常に臭い」ことを意識して気をつけるのは重要なことだと思います。一方で、そういう「煙草の煙は臭い」という声が増えたことによって、近年、各所で分煙化、マナー啓蒙が進んで来ているわけで、そのことについてはsadmanさん同様、僕は賛成しています。

ただ重要なのは、sadmanさんも言うように煙草の「匂い」は、喫煙者にとっては当然、いい「匂い」なわけで(非喫煙者でもそれほど不快ではないという人もいる)、公衆便所やゴミ捨て場、ドブ川などの「臭い」とは違って「誰もが臭いと思うものではない」ということ。

だから嫌喫煙者サイドの主観から(FT-620Bさんのように)、一方的に「煙草の煙は臭い=悪」と決めつけ、喫煙ルームのドアの隙間からちょっとでも漏れる煙や、喫煙車両からドアを空けた時に漏れる煙、屋外での離れたところから漂ってくる煙などから、微量でも煙草の匂いが感知されると目くじらを立てて「全面禁煙=ゼロにしろ」のは、ちょっと行き過ぎなんじゃないでしょうか。

「微量でも、副流煙による健康への害がある」という主張もあり得るかもしれませんが、屋外の動いた空気の中で、微量の煙草の臭いが感知できる程度の副流煙が健康に深刻な害をもたらすとは、そもそも副流煙による受動喫煙の問題のもととなっている「平山学説」については多くの矛盾が指摘されている(「禁煙ファシズムと戦う」小谷野敦他、共著)中、考えにくいと思います。

ブログでの議論の中で「受忍限度」という言葉が出て来てましたが、そりゃ密閉した空間の中で煙草を吸われて煙を吐き出せれたり、屋外でも、すぐ隣で顔に向かって吐き出されたりしたら、我慢成らないのは当然。そういうことにならないために、分煙があり、マナーがあり、今時それを守らない喫煙者は論外だと思います。

オノ・ヨーコは、今の社会に必要なのは「思いやり」だとどこかで言っていました。
柄谷行人は、それを「他者への想像力」とも言っています。(「倫理21」)

もちろん、これらの言葉は喫煙/嫌煙についてではなく、あちこちで戦争の起こっている社会全体についてだけど、僕は今の喫煙/嫌煙論議にも同じことが言えると思います。嫌煙ブームでヒステリックになっている人は、喫煙者の立場への想像力と思いやりに欠けているし、逆にマナーを守らない喫煙者も、非喫煙者への想像力と思いやりに欠けていると言えます。

多種多様な人がいるのが社会であり、
違った価値観を持った人がいるからこそ世の中は面白いのだと思います。
必要なのはお互いが相手のことを想像し、思いやること。
ひとつの価値観を押し付けるのではなく、異なる価値観をお互いが尊重し合う、
僕はそんな社会になってほしいと思っています。
[煙草ブログランキング]


煙草、社会、アート 

お盆の間、休暇をとっていました。

休み中も、ジャングルの中で一服しながら煙草について考えたりしていて(笑)、煙草って、今の社会をちょうど裏返したようなもので、アートに似ているかもしれないと思ったりしました。もちろん、だからといって、煙草=アートというわけじゃないけど。以下、今まで読んだ本などから煙草の属性を拾い挙げてみたのですが、「煙草」を「アート」に読み替えてもそのまま成立すると言えそうです。

煙草は、嗜好品である。
(嗜好品はしばしば身体に悪い)
煙草は、無駄なものである。
(効率性、合理性、生産性を重視する社会の価値観では)
煙草は、文化である。
(資本主義社会では文化よりも経済が優先)
煙草は、コミュニケーションの道具である。
(今の社会問題のほとんどはコミュニケーション不足が原因。)
煙草は、気分転換、ストレス解消の道具である。
(それだけ、社会がストレスの多いとも言える。)
煙草は、非物質的、精神的なものである。
(もちろん今は物質社会で消費社会)
煙草は、マイノリティーのものである。
(社会では非喫煙家がマジョリティーだ)

これを表にしてみると(こういう表をつくるのが意外と好きだったりします)、

  【煙草/アート】【社会】          
       文化  経済
       遊び  仕事
      多様性  均一性
     非効率性  効率性
     非合理性  合理性
   ストレス解消  ストレス
    無駄なもの  役に立つもの
コミュニケーション  コミュニケーション不足
      精神的  物質的
  マイノリティー  マジョリティー


…だからどうだ、というわけでもないですが、あえて言うならば、
だからこそ「これからの社会には煙草とアートが必要なのだー!」
ということかもしれません(煙草はさておき、アートに関してはマジでそう思ってます)。というわけでそろそろ一服します。[煙草ブログランキング]

コミュニケーションの道具 

煙草おもしろ意外史 煙草おもしろ意外史
日本嗜好品アカデミー (2002/09)
文藝春秋

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日本嗜好品アカデミーなる団体が書いているこの本、「アカデミー」とつくだけあって、煙草の歴史を手始めに、コミュニケーション、大人、文化についてと深く展開していくところが(嫌煙家からすれば強引にしか見えないかもしれないが)かなり面白い。

まずは煙草の歴史。
煙草は元来,自然への、神への供え物として使われていて、その後、コロンブスによってヨーロッパにもたらされ、社交の道具として重宝されるようになる(当時から何度も迫害を受けていたらしい)。自然との対話の道具から、他者との対話の道具へ。そして、デカルトが理性を発明した近代になると、煙草は一人、思考にふけったり、読書をしたりするなど、自己との対話をするためのものになる。
整理すると、

1人と自然(神)とのコミュニケーション
2人と人とのコミュニケーション
3自己とのコミュニケーション(思索など)

という3つの段階のコミュニケーションの促進に、煙草が重要な役割を担ってきた!ということ。さらに、著者は現代の様々な問題ー自然環境の汚染と破壊、親子の断絶、ひきこもり、近隣社会の疎遠化、精神や神経の病などーが結局のところ、すべてコミュニケーションの病ではないかと言う。そして今、もっとも必要とされているものこそ(煙草が果たしてきたような)様々なレベルでのコミュニケーションなのではないかと。「煙草は健康に害になるから全面的に禁止しろ!」などとヒステリックにならないで、煙草の一服でコミュニケーションが活発になれば、その方がずっといいんじゃないか。

そもそも煙草、酒、コーヒーなどに代表される「嗜好品」とは、栄養摂取を目的とせず、香りや味など感覚的な刺激を楽しむものであると言う。本来、大人の嗜好品であるはずの煙草は「大人の」自己裁量に任されるべきもののはず。それが、「健康」という一面的な軸で排斥されようとしているところに、現代の「大人になりきれない大人」があるのではないか、と。僕自身、「カセギ」と「ツトメ」を果たしている大人かどうかは自身ないけど、この意見には概ね賛成。たかが煙草、されど煙草、大人論にまで行き着いてしまうのだ。
とりあえず、一服でもしませんか?









煙草は文化である 

ウェブでプロジェクトの下調べ中に、日本発、No Smokingならぬ「Go Smoking」という喫煙者同盟のサイトを発見。トップのフラッシュアニメーションもセンスいいし、Go Smokingの自作TVCMや、官庁へ喫煙者の癌発生率データの信憑性を突撃電話インタビューしたり、Tシャツもつくったりと遊び心があって楽しい(リンクさせていただきました)。
中でも面白かったのが、10回以上にわたって書かれている筒井康隆のコラム。とりわけ、最後のコラムに書かれていた以下の文章に僕はググッときた。

「煙草は文化である。なくしてはならない貴重な文化である。これを守るために今、喫煙者たる自分に何ができるのかをわれわれは考えなければならない時期にきている」

いいこと言うなあ。これを読んで、僕の今回の企画実現へのボルテージが上がらなかったわけがない。とにかく、開催場所となるギャラリーは、ほぼ狙いを定めた。「路上禁煙法」で名高い千代田区にあるギャラリーでやる予定。大筋は出来ているが、あとは日時と具体的な内容をさらに詰めていきたい。まずは一服してと…。

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